『妹背山婦女庭訓』第二

こんばんは。三連休に、
吉田簑助さん文化功労者顕彰記念、国立文楽劇場4月公演
『妹背山婦女庭訓』
(小学館『新編 日本古典文学全集 77 浄瑠璃集』に収録)を読書。

第一は21日の日記に。

進行通りに、
第二 猿沢池の場、
[14]山働きの狩人
[15]淡海の勅勘、赦免
[16]入鹿謀反の注進
から
第三 定高館の場、
山の段

第2部
第二 葛籠山(つづらやま)神鹿殺しの場
[17]芝六、爪黒(つまぐろ)を射止める
芝六住家の場
[18]天皇を匿う芝六
[19]掛け乞い
[20]万歳
[21]芝六忠義
[22]鹿殺しの詮議
[23]三作、身替わり
[24]芝六の帰宅
[25]芝六の義心と十三鐘

いつも第2部、第四 杉酒屋の段の手前まできて、気力が尽きる。
でも28日の文楽講座は宗助さん。
宗助さんは杉酒屋の段にご出演されるので、27日には読もうと思っている。



第二の芝六のところをノートに取りながらじっくり読んだ。

応援している、
豊松清十郎さんが猟師芝六を遣われる。

しかも私は初日第2部から観に行く。
予定では4日の通しだったが、急きょ増えて、思っていた通り清十郎さんの初日を観られることになった。
なので今は芝六を重点的に読んでいる。

葛籠山は若草山のことだった。「つづら折の山」とも言うらしい。
この校注も最近気が付いた。あたしの目は本当に節穴だ(笑)。

ちょっとそれるが、kinkiさんの『薄荷キャンディー』に綴れ織りが出てくる。

辞書を引いたら、つづらとつづれは意味が違った。ちゃんと調べてよかった。

「父が身に気づかひはないほどに」
父の身に心配はないので、となる。

浄瑠璃では、今でいう「の」を「が」と言うことに私はやっと慣れてきた。それに文章が美しいと感じている。

観て・聴いているとあっという間なので、こうやって自分で浄瑠璃を読む時間は改めて貴重やなと思った。

もちろん読まなくても、実際に舞台で観て・聴いても十分感動すると思っている。

ただあたしは活字中毒なので(苦笑)、気が付けば劇場にいながらでも床本集の文字を目で追っていた。

そのせいで舞台を見逃したこともある。
4月公演は意識して、床本集を見ないでおこうかな。

どうだろう。実際には3色ボールペンを握りしめているかもしれない。

清十郎さんのお人形の時は、いつも目を離さない。他のお人形が動いている時でも、清十郎さんのお人形だけを観ている。観すぎだな、あたし。

「妻のお雉も忠実やかに」
忠実やか(まめやか)、と変換できたことにまず驚いた。
意味は、誠実で礼儀正しくとある。
私もこうありたい。浄瑠璃を読んで好きになったことば。

「亭主は如才ない証のしがをくろめて入るところへ」
この如才ない、もまず響きが好きで、ぬかりなく機転が利くという意味でも好きなことば。

校注より、
如才ない、と
内証(貧しいこと)
両方にかかっていると。浄瑠璃にはこういうことばが多くて、本当におもしろい。

口から出任せの万歳は、
「一体お前がこんな内で太平楽おっしゃるからぢや」
太平楽が、口から出任せを言うことらしい。

お雉が芝六の牝鹿殺しを疑っているが、鹿は「かせぎ」の異名があるらしい。
鹿と言っても、自分の稼ぎのことやとなんとかごまかす。
このあたりがようできてるなぁと思う。
もし仮に鹿の異名がかせぎじゃなかったら、別の言い訳をしたかもしれないが、鹿と稼ぎはどちらも話の中にうまく溶け合っていて、このことばしか成り立たないように思う。

完成された浄瑠璃やと思う。

鹿殺しの詮議は、三作と杉松どちらも健気で、結末が分かって観ると泣ける。

三作の身替わりではお雉の詞が辛い。
また三作の利発なことばに泣ける。

芝六の帰宅はちょっと笑えるように作ってあるが、これも結末が分かっていると泣ける。
ここは三作が身替わりになったことを知らない芝六の演技をしっかり観ようと思う。

しかも酔った振りという芝六。

「侍の義理が敵ぢやと」
物語の悲しさはこの一言に尽きる。
納得させる芝六に感心しつつ、浄瑠璃を書いた半二先生を尊敬している。

命がけの物語…蘇我入鹿が調伏で討伐される場面も楽しみ。

第四の感想はまた後日。


旧暦如月九日、雀始巣。空氷