新版歌祭文続き

こんばんは。今日は妹が朝に洗濯をしてくれたので、帰ってきてからはのんびりできた。眠たい...



*新版歌祭文
油屋の段が気になって、仕事の休憩時間、帰りの電車でも床本集を開いたが進まなかった。
家に着いて、プログラムのあらすじを読むと少し理解できた。
その上で読むと、もう少し早く読み進められるだろう。



にしても、ぱらぱらと最後まで読んだが、お染ちゃんの母が子をおろすように諭す場面は驚いた。
お染ちゃんが妊娠中は知っていて、その上で嫁入りを勧めるから、お腹の子がおってもいけるんや、ぐらいに思っていた。
やっぱりそうじゃないよなぁ…。



こんな話を聞かされたお染ちゃんは悲しいだろうなぁ。
もちろん母親も悲しいとは思うが…。
伽羅先代萩』の政岡の心境と似ている。
久松ぁんもどうにもできず、死を選ぶとは…。



相思相愛で死ぬことは幸せなのだろうか…。
また『妹背山婦女庭訓』の雛鳥と久我之助のことを考えないといけなくなった。



浄瑠璃によく出てくる若い男女の死。
最近意味をよく考えるようになった。
作品ごとに違うが、やはり時代のせいなのか、違うのか。
時代に反発して作品が生まれたのか、ただ共感して生まれたのか。



どのような観客が人形浄瑠璃を好んでいたのかを知りたい。
作者も誰に向けて書いたのか。
やはり庶民でいいのだろうか。
その庶民は自由恋愛ではない時代に不満を抱いていたのだろうか。



いろいろ考えて、当時のことはいくら考えても分からない。
悲しいが、制約があった中で生まれた物語だからこそ、現代人の心の奥まで響くのかと思う。
当時も制約があったからこそ、情熱的な恋愛だったのだろう。



でも恋愛経験が少ない私が語るにはふさわしくないんだが、なぜこのような悲恋が現代まで残ったのかが気になる。
義太夫節がそうさせるのかもしれない。
でも私は語る前の言葉を書いた浄瑠璃作者を尊敬しているので、なぜこのような物語にしようと決めたのか聞いてみたい。



最近だと近松半二先生に会ってみたい。
『妹背山婦女庭訓』のお三輪ちゃんは悲しすぎる。 擬着の相の血が必要という設定は何か言い伝えがあるのだろうか。

『新版歌祭文』は元々二人は死んでしまったけど、なぜ取り上げたのか。
そして今私が読んでも泣けるのはなぜなんだろう。
時間はあまり作れないが、やはり浄瑠璃集で一字一句読んでみたいと思うようになった。


旧暦卯月六日、タケノコショウズ。空氷