内子座文楽について

こんばんは。

このブログを毎日書く!と決めたので、今までなら夜行バスに乗る日は余裕ないよ、で済ますところを書くことにした。



内子座文楽の内容について、どうしても言いたいことがある。

桂川連理柵

初演浄瑠璃集では、お半の手紙はシンプル。

「どふぞ」(どうぞ)と「とぶぞ」(飛ぶぞ)という間違いなんてしない!

お半はもっと賢い。

長吉もあんなに洟垂れではない!

お半のことは無理矢理だが、ただ好きなだけ。

それを洟垂れた姿を笑うのは、本当の笑いではない!

浄瑠璃を聴いて面白いのは、
「あ、いたい」(痛い)

「会いたいやと」

というのが語りの中の笑いだと思う。

かといって儀兵衛が悪いというわけでもなく、儀兵衛もお絹のことがただ好きなだけ。

おとせはお金を盗んだりするからいい人とはなかなか言えないが…。

悪巧みをした、長吉、儀兵衛、おとせを捕まえろ!というあたりが唯一の救いなのに…。

改作の良さが私には分からない。



*ひばり山姫捨松

解説本にいじめの美?言葉は忘れたけど、いじめる場面がいい、というように書いていた。

殺しの美という言葉も使っていたが、なぜそうなったのかという問いかけがなければ、解説の意味をなしていないと私は思う。

いじめや殺しに美はない。

それでも実際に起こった事実を元にしているなら、意味を問うべきやと思う。

『ひばり山姫捨松』はじっくり読んでいないから、また読んで、内子座で観て、聴いて、考えたい。


旧暦文月十一日、蒙霧升降。空氷