浄瑠璃集『新版歌祭文』を読む
こんばんは。
今日もよく寝て、昼からも涼しいので自宅で浄瑠璃集を開いた。
*文楽、地方公演
『新版歌祭文』
*日本古典文学体系52
浄瑠璃集 下
鶴見 誠さん校注
岩波書店刊行
昭和34年6月5日発行
野崎村の段を読み始めた。
野崎村は四条町とあったので調べた。
奈良に行く時、通っているのに、通過しているだけだと今日まで知らないままだった。
始まりは旧暦らしさが出ている。
博多座の時は浄瑠璃集を持ってたんかな。もし読んでいたとしても、今日ほど引っかかりは少なかったように思う。
立春が出てきて、梅が咲いているので、今の2月4日過ぎだろう。
おみつを清十郎さんが遣われるが、「お夏清十郎」でまた笑いが起こるんかな。
まぁどっちでもいいや。
まだ始まったとこやし。
でもおみつ父、久作の想いには泣けるなぁ…。
おみっちゃんがけなげやからこそなんやけど。
短い日というのも昔らしい。
今は日が短い感覚なんて薄れてるもんな。
私はたまたま夕焼けの空を続けて眺めていたら、もう最近は夕日が沈んでいることに気付けた。
暑い、暑いと言っても、やはり夏は終わり始めている。
立秋は過ぎたしね。
旧暦だと文月から秋は始まっている。
父さんは元気そうで微笑ましい。
この時に『新版歌祭文』は思い出さなかった。
今日はふと思い出せた。身に付いていたんやなぁ。
久松が帰ってきて、嬉しそうなおみつ。
一度だけ聴いたことがあるので、舞台が目に浮かぶ。
でも清十郎さんのおみつは初めてなので、想像している今が本当に楽しい!
当日の生きた舞台が楽しみ!
祝言の用意で嬉しそうなおみつ。
うきうきが伝わるのは浄瑠璃がいいから?
それも束の間。
お染が訪ねてくる。
切ないなぁ…。
でも久作だけは全部お見通し。
うまくいけばよかったが…、浄瑠璃に悲しい結末はつきもの。
悲しい事実からお芝居が生まれた。
それでも人気があったのにはそれなりの理由があるはず。
いつもこんなことを考えながら文楽に通っているわけではないが、浄瑠璃と向き合うと「悲しさ」がどうしてもつきまとう。
本当に切ないなぁ…、文楽って。
おみつと久松の痴話喧嘩だって、外にお染がいるから。
頭に灸を据えられて「あっつ」で笑えたとしても、親が喧嘩を収めたとしても切ない。
ちなみに浄瑠璃集には「頭に三里はあるかいやい」はなかった。
初めて改作いいやんと思った。
いつもケチを付けているから(笑)。
以前はお染登場に思い入れがあった。
今回は、あ清十郎さんいなくなるのかと思った。
って本を読んでの想像の世界やから。
実際には義太夫節をちゃんと聴いていると思う。
おみつと母の会話が一番泣ける。
いいとこをカットするなんて。
はぁ、もったいない。
気になって読んでも、結局はここに行きつく。
旧暦文月廿一日、フカキキリマトウ。空氷